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水行20日、10日の検証 - 天上のワオギツネ

2026/09/26 (Sat) 22:37:56

「会稽東冶の東」(2026/09/26)では、倭人伝の水行20日、水行10日の日数は沖縄に至る航海の日数だとしたが、この日数が妥当なものであるか検証が必要だろう。

そこで、次のように想定し、計算を試みてみた。

倭人伝は、不彌国から有明海を南へ水行し、投馬国までが20日だと記している。

この投馬国については、九州の書道家の説では、倭人伝の原文は草書体で書かれたとして、実際には「殺馬」と書かれていたものが、「殺」の草書体と「投」の草書体は非常によく似ていることから、書き写すときに「殺」が「投」に誤写されたとする。
そして、「投馬」は実際にはトマではなく、「殺馬」サツマだったとみる。

この投馬=殺馬説は非常に有力な説だと思われる。

そこで、この説をベースとして考えると、有明海を舟で南下して行って、20日で殺馬(サツマ)に着くとすれば、この殺馬(サツマ)の地名は今の鹿児島県の西側半分の半島に当たる薩摩(サツマ)と重なる地名であるので、殺馬(サツマ)=薩摩(サツマ)だとみることが可能になる。

なぜ、殺馬が投馬に誤写されたのかと考えると、単に双方の草書体がよく似ていたためだけではないように思われる。
殺馬は雨乞いのために行われる殺牛殺馬の道教の儀式であり、倭人伝では倭国の元首の卑弥呼の呪術を鬼道として否定的に扱っており、この鬼道は道教やシャーマニズムを指しているとする説もあることからして、雨乞いの殺馬儀式である「殺馬」の字は不都合だとし、意図的に殺馬を投馬に誤写したのではないかとすることも可能である。

このようにみると、投馬(トマ)は元々は殺馬(サツマ)であり、そのサツマとは今の薩摩半島を指す地名だったと考えることができる。

ただ、このサツマ(薩摩)の語義が何であるか所説あるものの、はっきりしていないようだ。
薩摩(サツマ)は、元々は薩麻(サツマ)と書かれたようだ。
この薩麻の字の中国語上古音は、サッマとされる。
そして、この薩麻(サッマ)とよく似た発音の語が満州語(女真語)のsaman(サマン=シャーマン)であり、中国清朝ではこれを薩満(サマン)と表記したという。

つまり、薩摩(サツマ)の語源を考えるとき、薩摩(サツマ)の原音は薩麻(サッマ)であり、この薩麻(サッマ)は満州語のシャーマンを表すsaman(サマン=薩満=シャーマン)である可能性が出てくる。
薩摩は奈良時代以降まで呪術者(シャーマン)が活発に活動を続けていた土地であり、3世紀頃にはそうした呪術者が濃厚に活動する土地とみなされて殺馬(サッマ=薩満=シャーマン)と呼ばれていたとすることもできるのである。

この満州語のsaman(サマン=シャーマン)の語が薩麻(サツマ)の語源であるとすれば、この語が日本に流入したのは縄文時代前期の曽畑式土器がもたらされて九州から沖縄にまで普及していった時だった可能性が考えられる。

曽畑式土器は朝鮮半島の櫛目文土器の影響を強く受けた土器であり、その朝鮮半島の櫛目文土器の担い手は西遼河系の種族の影響を受けたツングースの満州系の種族だったと考えることができることから、この満州系種族の語であるsaman(サマン=薩満=シャーマン)の語が土器の移動に随伴して九州にもたらされ、それが九州から沖縄に普及する途中、呪術者の濃厚な南九州の土地の呼称として定着したというわけである。

いずれにしても、倭人伝の投馬(トマ)は殺馬(サツマ)であった可能性は高く、有明海の嘉瀬川の河口から南下して一息つく所が殺馬(サツマ)だったとすれば、その殺馬(サツマ)に最もふさわしいのは、縄文末に沖縄までゴホウラ貝を仕入れに舟団を組んで渡海し、それを携えて帰還し貝腕輪を作り、弥生になると博多がこの仕入れを行うようになって中間加工地の役割を担うようになった今の鹿児島県南さつま市の阿多であるとするのがよいだろう。

そして、倭人伝の投馬が今の南さつま市の阿多だったとすれば、有明海最奥の嘉瀬川河口から阿多までの水行20日が果たして妥当な日数であるかどうかを検証すればよいことになる。

地図でその距離をざっと測ると、嘉瀬川河口-南さつま市阿多の距離は240km程度である。
これを20日で漕ぎ渡るのだから、1日当たりの水行距離は12km程度となる。

そして、朝8時頃から漕ぎ出して、午後3時頃まで水行くを続けたとした場合、その時間は7時間程度となるが、1日当たり12kmを漕ぐので1時間に進む距離はおよそ1.7km、約2km程度の計算になる。
現代のカッターが巡行速度で1時間漕いだ場合の距離は3km~5kmが普通とされるので、3世紀頃の舟で1時間当たりの手漕ぎ距離が2km程度というのはむしろゆっくりと漕いだときの距離に相当するとみるのがよいようだ。

このように計算すると、有明海最奥の嘉瀬川河口から舟で鹿児島県の南さつま市の阿多(投馬)まで水行20日とする倭人伝の記述は妥当な日数なのではないだろうか。

この計算に従って、南さつま市阿多から舟で10日水行した場合の距離は、1日12kmとして、10日で120kmとなり、この120kmの距離はちょうど屋久島あたりになる。
これを倭人伝の記述に当てはめると、投馬(阿多)から水行10日で屋久島に上陸し、そこから南へ1か月陸行して邪馬台国の都に着くという図になる。

つまり、これらの水行の日数は決して無理な日程ではなく、むしろごく普通の水行の日程だと言えそうだ。

魏の使節団が南方の国に舟で行くその日程を調査して得たデータは、実に正確なものだったということである。



会稽東冶の東 - 天上のワオギツネ

2026/09/26 (Sat) 15:50:17

「邪馬台国は八女・山門」(2026/09/26)に引き続いて「なぜ邪馬台国は会稽東冶の東に位置するだろうと考えられたのか」を検討する。

倭国の都のある邪馬台国は会稽(紹興市)から東冶(福州市)の間の東方にあるだろうと、倭人伝は記している。
地理的にはこの海域は屋久島の南の諏訪之瀬島あたりから沖縄那覇市あたりに位置し、奄美・沖縄の群島の位置と重なる。

そして、この地理的位置に邪馬台国があるだろうと倭人伝が記しているその理由は、次の記述にはっきりしている。

末盧(唐津)から東南へ行って不彌(嘉瀬川河口付近)に至り、ここから有明海を南下して20日の航行で投馬国
に着くとし、そこからさらに10日の航行を経て上陸し1か月程度の陸行で邪馬台国の都に到着するとしていること。

次に、倭人は大人子供にいたるまで皆入れ墨をしており、この入れ墨は会稽あたりの部族の入れ墨とよく似ているとしていること。
倭人伝は、この倭人の入れ墨について、「中国に朝貢してくる倭国の使節団は、会稽に封じられた周の夏后少康の子の太伯は土着の部族たちと同じ入れ墨を自らに施したが、その入れ墨と同じ入れ墨をしている自分たちはその太伯の子孫であり、そのために倭国の高官を務めているのだと皆自慢する」と記していること。

つまり、これらのことから、倭人伝では、邪馬台国は会稽から東冶の間のその東方にあると考えられる、としているのである。

倭人は弥生時代から後漢の楽浪郡に挨拶のため頻繁に出入りしており、倭人の入れ墨については、楽浪郡の役人は倭人のその入れ墨を見て、呉の入れ墨とよく似ているので、倭人は伝説の周の太伯の子孫ではないのかと尋ねたりしているうちに、倭人自身が周の太伯の子孫だと信じるようになった可能性も出てくる。

また、中国の王朝ではそうした倭人の入れ墨からして、会稽から東冶の間の東の海の向こうに倭人の都があるとする固定観念を持ち続けていたと思われるが、魏の使節団が倭国に出向いた際、南方に国があるか、またそこに行くには何日かかるかと調査したと思われる。
そして、そこには奄美・沖縄の群島があり、その沖縄に舟で行くには何日かかるなどのデータを得たと思われる。
縄文末から弥生時代にかけて、鹿児島や博多から貝腕輪の材料のゴホウラ貝を仕入れるために倭人が航海を行っていたことは考古学などの調査でよく知られていることである。
当然、このことから、倭国の役人たちは沖縄までの航海の日数を知っていたし、博多の交易関係者からも詳細な知識を取得することができたと思われる。
これが、「水行20日、水行10日」の日数の実態なのだだと思われる。

魏の使節団は邪馬台国は八女・山門にあることはちゃんと実体験したが、その報告書を読んだ魏の高官は抜きがたい固定観念から、「倭国は朝鮮半島の南の海上から南へと続く長大な島の上にあり、都のある邪馬台国は会稽と東冶の間の東方あたりに位置している」とする地理観を正式なものとし、そのため、使節団が報告した邪馬台国八女・山門の地理観は葬り去られたのだろう。
こうした倭国の位置に関する固定観念は、魏が呉と敵対していたこととも深く関連して増幅されたのではないか。

これが「邪馬台国水行20日、水行10日、陸行1か月」の正体なのだと思われる。



邪馬台国は八女・山門 - 天上のワオギツネ

2026/09/26 (Sat) 01:12:12

魏の使節団がたどった邪馬台国までの道順は、末盧→伊都→奴国→不彌→邪馬台国(八女・山門)。
しかし、帰り道は上の道順を逆に戻ったのではなく、別の道をたどったようだ。

その帰り道の道順は、「その余の傍国」の記載順だと思われる。
ざっと見ると、斯馬国(筑後市庄島・島田・古島あたり)→伊邪国(佐賀市諸富町為重あたり)→鳥栖→峰→神埼→奴国(佐賀市嘉瀬川左岸の野田・萩野あたり。奴ナの音は野ノの訛りと思われる)。
この加瀬川左岸の野田・萩野あたりが「女王の境界の尽きるところなり」ということになる。

それから、魏の使節団は加瀬川を越えて牛津→多久→唐津へと向かったのだろう。
唐津→多久→牛津→加瀬川の東南へ方位は、倭人伝が記している末盧→伊都→奴→不彌の東南への方位とまったく一致する。
彼らは、この方位をちゃんと知っていたということである。

なお、八女から西に進み、筑後川を越えてから北上して鳥栖へ向かい、それから峰や神埼などの山裾をつたって加瀬川の野田あたりへと向かったのは、筑紫平野の南部域が湿地帯だったからだと思われる。




所謂「邪馬臺國」の所在地は謎ではない! - 福島雅彦

2026/09/03 (Thu) 12:46:25

古今東西の研究者が、中国正史の記述が良い加減であるので、その所在が混沌としている、と思い込んでいます。曰く「伊都国の南に水行十日陸行一月だと、九州島を突き抜けて太平洋に…」とか、又「伊都国の南を東に読み替える、と言う禁を犯して畿内である」とか。
此れは『三国志(魏志倭人伝)』の記事の文字面だけを観ての誤読てある。文脈・行間を読み取ることをしていない。
「邪馬壹國」以北の詳らかになる九カ国が北から順次南下して述べられている。其の九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」と。「投馬國」が最後に在るということは、伊都国の南に「水行二十日」の地点に「邪馬壹國」と東西に並んで等距離に在る、と読めます。
従って、「投馬國」の後ろの「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は、「投馬國」と「邪馬壹國」の事ではない、と判る。
伊都国の南に「水行二十日」と「投馬國」への千五百里の所要日数を先に記述した為、郡庁から伊都国までの萬五百里の所要日数「水行十日陸行一月」を追記しただけ。この合計で「邪馬壹國」迄の萬二千餘里の所要日数が「水行十日陸行一月」+「水行二十日」と判るのである。

伊都国は糸島ではない。 - およよ。

2026/06/16 (Tue) 04:49:20

小倉南区城野遺跡の発掘調査で糸島が伊都国ではない可能性が非常に高くなりました。

その経緯をお知らせします。

小倉北区「到津」
ここは田川周辺を拠点とする伊都國王と考えられる「岡県主熊鰐」が造った一大率を置くための出先機関の軍港です。

関門海峡を監視し、他国の船を見つけると到津の水軍が出動して拿捕、臨検、略奪をする目的で一大率が置かれました。

魏志倭人伝のルートが定説と大きく異なります。
ですがこのルートは魏志倭人伝のルートを誠実に再現しました。

壱岐から1000里の港が末盧国てます。
方角は書いてありません。
定説は松浦とされています。
しかし松浦だと500里しかありません。

1000里に当てはまるのは宗像市万津浦です。

ここから南に陸行500里で伊都国に着きます。
定説は糸島ですが、方向が東南では無く北東になっていますね。
明らかに違います。

宗像市から東南陸行500里行くと田川周辺に着きます。
ここが本当の伊都国の首都です。
昔の地名は「位登郷」(いとごう)です。

伊都国は遠賀川流域、筑豊地区、北九州市の西側を支配する「岡県主熊鰐」です。

熊鰐が女王・卑弥呼の命を受けて一大率を置く為に造った軍港が「小倉北区の到津」です。

魏志倭人伝では伊都国のみ「到」と記されています。
到津の「到」と符号します。

到津は「いとうず」と読みます。
伊都津=位登津=到津です。

名前の一致から位登郷の出先機関の軍港だと推察出来ます。

これまで到津付近から魏の遺物や王族の遺物が見つからなかった為にあまり注目されませんでした。

しかしここから東に2kmの小倉南区城野遺跡からそれを裏付ける大発見がありました。

城野遺跡は卑弥呼の時代と完全に一致する九州最大級の方墳周溝墓です。

北九州市のホームページでも隣接する重住遺跡群、重留遺跡群と合わせて「クニの原型」と記されています。

2基の幼児の石棺から39kg、31kg、合わせて70kgもの大量の中国産の辰砂が出て来ました。

物凄いお金持ちです。

更には辰砂で描かれた「方相氏」の壁画も出土しました。

「方相氏」は前漢時代から洛陽の王宮で行われた節分行事の「福の神」の原型です。

つまりここには魏の王宮に出入り出来る相当な権力者が居た事になります。

この人物は一大率の長だと考えられます。

糸島では沢山の鏡などの遺物が出ていますが、これらはここに魏の一大率が居たと言う証拠にはなりません。
なぜなら外交や交易で入手出来るからです。

糸島に一大率が居たのならば、地名や魏の風習や生活を営んでいた痕跡があるはずなのです。

全くそのような形跡が見つからない糸島説は伊都国では無い可能性が高くなって来ました。

大陸に近いので遺物が出て来るのは当たり前の事であり、逆に沢山有りすぎるのもオカシイのです。

それは魏志倭人伝に「伊都国は女王国に臣従している。」と書いてあるからです。

貴重な鏡は女王へ献上するのが普通であり、こんなに溜め込んでいるのは逆に糸島は何処にも臣従していない証拠になります。

城野遺跡には2か所の玉の加工工房があり、糸魚川産の硬玉翡翠なども見つかっています。

ただ小倉北区は当時は海でしたので、農耕には向いておりません。
なのにこの大量の辰砂をどうやって入手したのか?

それは関門海峡の通行料や略奪によるものだと推察出来ます。

それ以外考えられないのです。

それに魏志倭人伝では伊都国の人口はとても少ないのです。

1000戸余りと書いてあります。

これは農耕に向いていないので多くの人口はいなかったと言う事ですね。

ところがです。
ところが魏略によると、伊都国は10000戸と書いてあるのです。

何故10倍も人口が違うのでしょうね。

それは一大率が置かれる前の卑弥呼の時代に位登郷を訪れた時の田川周辺の人口が魏略に書いてあり、一大率が置かれた後に到津・城野遺跡へ立ち寄った時の到津の人口が魏志倭人伝に書いてあるのです。

もし糸島に一大率があったとしたら、糸島内に一大率があるのですから、人口は同じか少し多く書いてあるはずなのです。

なので糸島には一大率は存在しません。

他にも根拠があります。
魏志倭人伝のルートで何故最初に松浦に上陸して、険しい山道を東南(実際は北東)500里も歩く必要があるのか、全く理解出来ません。
また、糸島説の方もそこは説明出来ません。
方角も全然違っていますね。

それに糸島に一大率を置いても博多湾の西側のみしか対応出来ていませんね。
東側は全く対応出来ません。
そもそも糸島を避けて他の場所に行けば良いだけの話なのです。
それこそ西の国々は松浦に上陸すれば、糸島は監視出来ません。

東側の国々は博多湾の東に上陸すれば良いですね。

必ずしも糸島や博多湾内に行かなくとも他の場所に行けば良いと思います。

では到津はどうかと言うと、関門海峡を通る船は絶対に到津沖を通らなければなりません。
他に通過出来る場所はありません。

小倉は後の五街道の始発点でもあり、ここを抑えるのはとても重要です。

特に関門海峡は呉の船が瀬戸内海へ征くと畿内や瀬戸内海の他の勢力と同盟されてしまいます。

北九州の女王国にとって、挟み撃ちに遭ってしまいますので絶対に関門海峡を通してはいけないのです。

そして次の国である奴国はここから東南100里です。

「京都郡みやこ町」が奴国の首都です。

奴国は北九州市の東側〜大分県宇佐市にかけて拡がる豊前海一帯のかであり、縄文時代から姫島の灰色黒曜石を主な交易品として栄えた海洋国家です。

実質的にここが邪馬台国の首都です。

卑弥呼がここに居たかどうかはわかりませんが、政治的、経済的にはここが「都」です。

日本神話で「豊葦原仲津国」が古代日本の首都だと書いてあります。

京都郡みやこ町は「旧福岡県仲津郡」です。

「美夜古」と言う地名が後の奈良・京都の「都」の語源なのです。

長くなりましたが、これを御覧頂きました皆様の御意見、反論など有りましたら宜しくお願い致します。

645年の事実 - 邇波

2026/05/14 (Thu) 09:55:16

若御裔(わかんどほり)
下宮家の暴挙

倭 舒が聖大君の毒殺させ、聖の妹の豊御
が大君になり死亡した後に、その君(妻)の
佐富を妻にして、舒は大君に就任した際、
聖大君の遺児建(大海人)は、邇波 広高(秦
河勝)の遺児の良世(石勝)を従えて、穂国
造で、倭 冝坂の子孫文世の子、佐雄(
凡海 麁鎌/菟上足尼)の元で、隠棲し成
長します。

上宮家
太子の建就任式当日

倭 舒大君が殺害され、蔓木 毛人
大人から呼び出され甘樫丘に防備が施さ
れ就任式の日を迎えますが、舒の子の友
(中大兄)と餘 銀岐(中臣 鎌)がクーデター
を起こし、王の蔓木 毛人甘樫丘から法興
寺に向かう際道端から飛び出し暗殺され
ます。倭 建(古人皇子)は、父の仇とばか
りに館を包囲され、命と引き換えに道子
(額田王)を要求され、引き渡しています。

編集や削除出来ぬ様に画策
した為、他での使用は厳重禁止
し、これ以上の投稿はしません

ヤムトエ国後裔自称 - 邇波

2026/05/06 (Wed) 06:53:40

阿毎 多利思比孤 
隋書倭国伝

当時の大君は推古天皇
男性 倭 孝 593〜602
女性 倭 豊御 624〜628

大倭王権は邪馬台国後裔自称
日奉祭祀を行い阿毎巫女を
卑弥呼に改竄してます。

Re: ヤムトエ国後裔自称 - 邇波

2026/05/10 (Sun) 20:38:21

徐福の嘘は

607年邇波広高(鞍作 福利)は、遣隋使
として、皇帝場帝に謁見しますが、煬帝
に日本国への航海の秘密を暴露しそうに
為り、皇帝に激怒され、厳しい拷問を受
けます。

遣隋使の随行員は、広高に砒素を飲
ませて、亡くなる事で,償わせ
(大闢 極刑)国難を乗り切ります。

小野(おおの)、海 毛人(小野 妹子)は隋
や高句麗の国際事情に焦点を合わせます。

小野(オオノ)=王様の海 毛人(妹子)
太(オオノ)=王様の 蔓木 安萬侶

皇帝は、日本国の協力に歓迎し、毛人に
訓令書(国書)を持たせ国への航路を問
い質す事にします。

対高句麗政策は、使者である世清が、国
書を持参して遣隋使に同行し、倭国を訪
れます。

裴清は、国書を大人の蔓木 摩理勢
(大門・蘇我馬子)に渡します。
海 毛人は、国書を紛失したと報
告し、形式上一度、流刑にされます。

徐福が始めた嘘、中国・都から
日本列島を「会稽東治の東」
とさせ60から70度の方向誤認
を誘発させる手段

大闢ダビデ 神社(ダビデ王)
と大タイヘキ(極刑)が合祀

壬申革命戦(壬申の乱)関連 - 邇波

2026/05/09 (Sat) 20:11:14

壬申革命戦の最前線の野上行宮


白村江の敗戦処理として、伯済遺民
が支援する友の息子、称制大友を巡
り起きた戦争で有る壬申革命戦。

倭 建(大海人)の前線地に選ばれ、
急遽造営された野上行宮は、尾
治水軍船の係留された孤島で、
統率者尾治 若子(大隅)の私邸
の場所でもあります。

関ヶ原は海

味蜂間(安八麿)の海の島に有り、
対岸の大高から船を使います。
建の息子稚建(高市皇子)は、島の
西岸に有る松尾から上陸して、
和蹔ワザミ(和射見)の地から
野上に父、建を出迎え敵の情報を
伝えました。

尾治多々見は、623年に建の父、聖
大君の軍に加わり戦死して居ります。
若子には、壬申革命戦は弔い合戦で
も有りました。

尾治水軍を利用しての移動

全軍の指揮を長子の、稚建(高市皇子)
に任せ、建は、広野(持続帝)と建韓
(草壁皇子)、山邉安萬呂(中臣大嶋)
と共に騎馬の出動の為に遠州鹿沼、
科野国造の洩矢 宮萬呂に将軍として、
出陣を要請し三川の宮路山に本隊とし
て布陣しましたが、時の要衝でした。

山邉安萬呂(山部王)は、友の娘、
建の妻の1人、広野の息子の建韓(
草壁皇子)を宮道山で殺害します。

後年、反対されたものの702年10月
死の間際に広野は三河に向かい、夫
建の幼少時代の隠棲地を訪れ、息子
建韓の墓を宮路山に建てさせました。

女大君壱志(十市/遠智)の協力もあり

勝利報告を受けて、建等は、御津湊
から野上行宮を経由して、和蹔、
東山道から凱旋し、初の天皇として
建は即位します。

建の妻、道子(額田王)に娘の壱志
が生まれ壱志は、友と結婚して広
野が生まれ、広野(持統天皇)は建
と結婚してます。

広野は、稚建を藤原仲萬侶(武智
麻呂)に殺害させ、女大君を一年
して孫に大君をさせました。

危険極まりない関係

友の息子大友と友の死後に結婚
(義理の母)して葛野を産んで、
大君になり、実の父建に百済遺
民や夫の情報を流していました。
くの一の名称との関連性もあり
ます。建が行く末を案じた理由。

謎大き欽明天皇 (誉津別皇子) と倭 武 - 邇波

2026/05/08 (Fri) 19:08:47

実在が確定とされる稲荷山古墳
鉄剣銘に観る獲加多支鹵(ワカ
タケル)大王。 及び宋書に見
える倭王 武とでは、伝わった
内容に相違が見られます。

日本書紀の雄略天皇と稲荷山
古墳鉄剣銘に、見える大王の
名前は似てはいますが、記録
と一致してい無いのです。

日本書紀により、6世紀の欽明
天皇の宮は磯城郡磯城島にあり
一致しております。

日本書紀に雄略天皇がに使者を
派遣したことが、記されていな
いのです。

倭 武大君は、出雲王の彌母里
(葛城 円)を火矢で焼き討ちし、
王殺し(暗殺)をしています。

君(妻の)倭 広(手白香皇女/仲
津姫)は、母の兄の浦嶼 草香
と共に焼き死にを選び、妹の
関に養育をするように頼んで
います。

然し王殺しをして、報復され
弓矢殺害され息子が大君を受
け継ぐ権利を失って仕舞いま
した。

倭 武(餘 昆)の異母兄弟継(餘 紀)
に大君の権利が移りますが、彼
も又、王殺し(依網/筑紫 磐井)を
して長子共々、殺害され所謂、
継体天皇の子孫は、大君(天皇)
輩出は出来無くなります。

王系譜

邇波 彌母里ー荒田ー依網ー蔓木 垂見

誉津別皇子は口が聞けない状態
でしたが、倭 明大人に大君の話
が舞い込みます。

明大人(用明天皇)は武の遺児、幼武
に白羽の矢を立て、初代尾治国造の
蔓木 垂見王に、推薦し、垂見(一言主)
と狩りをして、大君に相応しいと
看做され王権入りを果たしています。

幼武の父、武とその異母兄弟の
同じ熱意に首の繋がった系統は、
形の上で子孫が無かった事にし、
子孫が無くなった方を系譜の上
で、繋がっているようにしたと
言う事になります。

倭 済大君は仲哀 - 邇波

2026/05/08 (Fri) 10:38:20

大倭王権が、豊国に
都を遷都した後の神託

仲哀は、倭 済大君

筑紫国の香椎宮にて
協議した際に仲哀天皇
は琴を弾き託を求めた

とあり、倭王武の上表文に
、控弦百萬(こうげん
ひゃくまん):弓を引く百
萬の兵、非常に強大な軍勢の意。

と表現されている事を踏まえて
記述した事から仲哀と済は同一
人物だと記紀が暗示してます。

神託伺いには鉄鐸を
使った事でしょう。

大君 済
「西方の国を王に
与えたいとの事です」

王 彌母里
「高句麗に遠征する必要はない」
神託を疑う

「高い処から西を見たが、海が
あるだけ国など見えなかった」
の発言は

徐福以来の外国に流布させて
いた日本の位置を示す

郡部の配置に開してだけ
例松浦郡(評)の配置は

北松浦群は、西に存在に

九州は北、本州れは南となる

済王君はしっこく食い下がり
矢で殺され、殯(もがり)の
為に移されることになります

新たな神託

新王君 興
王 彌母里
王子 荒田

倭 興大君
「私の後を継ぐのは
 百済の王子だそうです」

神託の詳細を尋ね、王子に命令

西万の風に向け海を渡り百済
と交渉をさせます


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