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伊都国は糸島ではない。 - およよ。
2026/06/16 (Tue) 04:49:20
小倉南区城野遺跡の発掘調査で糸島が伊都国ではない可能性が非常に高くなりました。
その経緯をお知らせします。
小倉北区「到津」
ここは田川周辺を拠点とする伊都國王と考えられる「岡県主熊鰐」が造った一大率を置くための出先機関の軍港です。
関門海峡を監視し、他国の船を見つけると到津の水軍が出動して拿捕、臨検、略奪をする目的で一大率が置かれました。
魏志倭人伝のルートが定説と大きく異なります。
ですがこのルートは魏志倭人伝のルートを誠実に再現しました。
壱岐から1000里の港が末盧国てます。
方角は書いてありません。
定説は松浦とされています。
しかし松浦だと500里しかありません。
1000里に当てはまるのは宗像市万津浦です。
ここから南に陸行500里で伊都国に着きます。
定説は糸島ですが、方向が東南では無く北東になっていますね。
明らかに違います。
宗像市から東南陸行500里行くと田川周辺に着きます。
ここが本当の伊都国の首都です。
昔の地名は「位登郷」(いとごう)です。
伊都国は遠賀川流域、筑豊地区、北九州市の西側を支配する「岡県主熊鰐」です。
熊鰐が女王・卑弥呼の命を受けて一大率を置く為に造った軍港が「小倉北区の到津」です。
魏志倭人伝では伊都国のみ「到」と記されています。
到津の「到」と符号します。
到津は「いとうず」と読みます。
伊都津=位登津=到津です。
名前の一致から位登郷の出先機関の軍港だと推察出来ます。
これまで到津付近から魏の遺物や王族の遺物が見つからなかった為にあまり注目されませんでした。
しかしここから東に2kmの小倉南区城野遺跡からそれを裏付ける大発見がありました。
城野遺跡は卑弥呼の時代と完全に一致する九州最大級の方墳周溝墓です。
北九州市のホームページでも隣接する重住遺跡群、重留遺跡群と合わせて「クニの原型」と記されています。
2基の幼児の石棺から39kg、31kg、合わせて70kgもの大量の中国産の辰砂が出て来ました。
物凄いお金持ちです。
更には辰砂で描かれた「方相氏」の壁画も出土しました。
「方相氏」は前漢時代から洛陽の王宮で行われた節分行事の「福の神」の原型です。
つまりここには魏の王宮に出入り出来る相当な権力者が居た事になります。
この人物は一大率の長だと考えられます。
糸島では沢山の鏡などの遺物が出ていますが、これらはここに魏の一大率が居たと言う証拠にはなりません。
なぜなら外交や交易で入手出来るからです。
糸島に一大率が居たのならば、地名や魏の風習や生活を営んでいた痕跡があるはずなのです。
全くそのような形跡が見つからない糸島説は伊都国では無い可能性が高くなって来ました。
大陸に近いので遺物が出て来るのは当たり前の事であり、逆に沢山有りすぎるのもオカシイのです。
それは魏志倭人伝に「伊都国は女王国に臣従している。」と書いてあるからです。
貴重な鏡は女王へ献上するのが普通であり、こんなに溜め込んでいるのは逆に糸島は何処にも臣従していない証拠になります。
城野遺跡には2か所の玉の加工工房があり、糸魚川産の硬玉翡翠なども見つかっています。
ただ小倉北区は当時は海でしたので、農耕には向いておりません。
なのにこの大量の辰砂をどうやって入手したのか?
それは関門海峡の通行料や略奪によるものだと推察出来ます。
それ以外考えられないのです。
それに魏志倭人伝では伊都国の人口はとても少ないのです。
1000戸余りと書いてあります。
これは農耕に向いていないので多くの人口はいなかったと言う事ですね。
ところがです。
ところが魏略によると、伊都国は10000戸と書いてあるのです。
何故10倍も人口が違うのでしょうね。
それは一大率が置かれる前の卑弥呼の時代に位登郷を訪れた時の田川周辺の人口が魏略に書いてあり、一大率が置かれた後に到津・城野遺跡へ立ち寄った時の到津の人口が魏志倭人伝に書いてあるのです。
もし糸島に一大率があったとしたら、糸島内に一大率があるのですから、人口は同じか少し多く書いてあるはずなのです。
なので糸島には一大率は存在しません。
他にも根拠があります。
魏志倭人伝のルートで何故最初に松浦に上陸して、険しい山道を東南(実際は北東)500里も歩く必要があるのか、全く理解出来ません。
また、糸島説の方もそこは説明出来ません。
方角も全然違っていますね。
それに糸島に一大率を置いても博多湾の西側のみしか対応出来ていませんね。
東側は全く対応出来ません。
そもそも糸島を避けて他の場所に行けば良いだけの話なのです。
それこそ西の国々は松浦に上陸すれば、糸島は監視出来ません。
東側の国々は博多湾の東に上陸すれば良いですね。
必ずしも糸島や博多湾内に行かなくとも他の場所に行けば良いと思います。
では到津はどうかと言うと、関門海峡を通る船は絶対に到津沖を通らなければなりません。
他に通過出来る場所はありません。
小倉は後の五街道の始発点でもあり、ここを抑えるのはとても重要です。
特に関門海峡は呉の船が瀬戸内海へ征くと畿内や瀬戸内海の他の勢力と同盟されてしまいます。
北九州の女王国にとって、挟み撃ちに遭ってしまいますので絶対に関門海峡を通してはいけないのです。
そして次の国である奴国はここから東南100里です。
「京都郡みやこ町」が奴国の首都です。
奴国は北九州市の東側〜大分県宇佐市にかけて拡がる豊前海一帯のかであり、縄文時代から姫島の灰色黒曜石を主な交易品として栄えた海洋国家です。
実質的にここが邪馬台国の首都です。
卑弥呼がここに居たかどうかはわかりませんが、政治的、経済的にはここが「都」です。
日本神話で「豊葦原仲津国」が古代日本の首都だと書いてあります。
京都郡みやこ町は「旧福岡県仲津郡」です。
「美夜古」と言う地名が後の奈良・京都の「都」の語源なのです。
長くなりましたが、これを御覧頂きました皆様の御意見、反論など有りましたら宜しくお願い致します。
645年の事実 - 邇波
2026/05/14 (Thu) 09:55:16
若御裔(わかんどほり)
下宮家の暴挙
倭 舒が聖大君の毒殺させ、聖の妹の豊御
が大君になり死亡した後に、その君(妻)の
佐富を妻にして、舒は大君に就任した際、
聖大君の遺児建(大海人)は、邇波 広高(秦
河勝)の遺児の良世(石勝)を従えて、穂国
造で、倭 冝坂の子孫文世の子、佐雄(
凡海 麁鎌/菟上足尼)の元で、隠棲し成
長します。
上宮家
太子の建就任式当日
倭 舒大君が殺害され、蔓木 毛人
大人から呼び出され甘樫丘に防備が施さ
れ就任式の日を迎えますが、舒の子の友
(中大兄)と餘 銀岐(中臣 鎌)がクーデター
を起こし、王の蔓木 毛人甘樫丘から法興
寺に向かう際道端から飛び出し暗殺され
ます。倭 建(古人皇子)は、父の仇とばか
りに館を包囲され、命と引き換えに道子
(額田王)を要求され、引き渡しています。
編集や削除出来ぬ様に画策
した為、他での使用は厳重禁止
し、これ以上の投稿はしません
ヤムトエ国後裔自称 - 邇波
2026/05/06 (Wed) 06:53:40
阿毎 多利思比孤
隋書倭国伝
当時の大君は推古天皇
男性 倭 孝 593〜602
女性 倭 豊御 624〜628
大倭王権は邪馬台国後裔自称
日奉祭祀を行い阿毎巫女を
卑弥呼に改竄してます。
Re: ヤムトエ国後裔自称 - 邇波
2026/05/10 (Sun) 20:38:21
徐福の嘘は
607年邇波広高(鞍作 福利)は、遣隋使
として、皇帝場帝に謁見しますが、煬帝
に日本国への航海の秘密を暴露しそうに
為り、皇帝に激怒され、厳しい拷問を受
けます。
遣隋使の随行員は、広高に砒素を飲
ませて、亡くなる事で,償わせ
(大闢 極刑)国難を乗り切ります。
小野(おおの)、海 毛人(小野 妹子)は隋
や高句麗の国際事情に焦点を合わせます。
小野(オオノ)=王様の海 毛人(妹子)
太(オオノ)=王様の 蔓木 安萬侶
皇帝は、日本国の協力に歓迎し、毛人に
訓令書(国書)を持たせ国への航路を問
い質す事にします。
対高句麗政策は、使者である世清が、国
書を持参して遣隋使に同行し、倭国を訪
れます。
裴清は、国書を大人の蔓木 摩理勢
(大門・蘇我馬子)に渡します。
海 毛人は、国書を紛失したと報
告し、形式上一度、流刑にされます。
徐福が始めた嘘、中国・都から
日本列島を「会稽東治の東」
とさせ60から70度の方向誤認
を誘発させる手段
大闢ダビデ 神社(ダビデ王)
と大タイヘキ(極刑)が合祀
壬申革命戦(壬申の乱)関連 - 邇波
2026/05/09 (Sat) 20:11:14
壬申革命戦の最前線の野上行宮
白村江の敗戦処理として、伯済遺民
が支援する友の息子、称制大友を巡
り起きた戦争で有る壬申革命戦。
倭 建(大海人)の前線地に選ばれ、
急遽造営された野上行宮は、尾
治水軍船の係留された孤島で、
統率者尾治 若子(大隅)の私邸
の場所でもあります。
関ヶ原は海
味蜂間(安八麿)の海の島に有り、
対岸の大高から船を使います。
建の息子稚建(高市皇子)は、島の
西岸に有る松尾から上陸して、
和蹔ワザミ(和射見)の地から
野上に父、建を出迎え敵の情報を
伝えました。
尾治多々見は、623年に建の父、聖
大君の軍に加わり戦死して居ります。
若子には、壬申革命戦は弔い合戦で
も有りました。
尾治水軍を利用しての移動
全軍の指揮を長子の、稚建(高市皇子)
に任せ、建は、広野(持続帝)と建韓
(草壁皇子)、山邉安萬呂(中臣大嶋)
と共に騎馬の出動の為に遠州鹿沼、
科野国造の洩矢 宮萬呂に将軍として、
出陣を要請し三川の宮路山に本隊とし
て布陣しましたが、時の要衝でした。
山邉安萬呂(山部王)は、友の娘、
建の妻の1人、広野の息子の建韓(
草壁皇子)を宮道山で殺害します。
後年、反対されたものの702年10月
死の間際に広野は三河に向かい、夫
建の幼少時代の隠棲地を訪れ、息子
建韓の墓を宮路山に建てさせました。
女大君壱志(十市/遠智)の協力もあり
勝利報告を受けて、建等は、御津湊
から野上行宮を経由して、和蹔、
東山道から凱旋し、初の天皇として
建は即位します。
建の妻、道子(額田王)に娘の壱志
が生まれ壱志は、友と結婚して広
野が生まれ、広野(持統天皇)は建
と結婚してます。
広野は、稚建を藤原仲萬侶(武智
麻呂)に殺害させ、女大君を一年
して孫に大君をさせました。
危険極まりない関係
友の息子大友と友の死後に結婚
(義理の母)して葛野を産んで、
大君になり、実の父建に百済遺
民や夫の情報を流していました。
くの一の名称との関連性もあり
ます。建が行く末を案じた理由。
謎大き欽明天皇 (誉津別皇子) と倭 武 - 邇波
2026/05/08 (Fri) 19:08:47
実在が確定とされる稲荷山古墳
鉄剣銘に観る獲加多支鹵(ワカ
タケル)大王。 及び宋書に見
える倭王 武とでは、伝わった
内容に相違が見られます。
日本書紀の雄略天皇と稲荷山
古墳鉄剣銘に、見える大王の
名前は似てはいますが、記録
と一致してい無いのです。
日本書紀により、6世紀の欽明
天皇の宮は磯城郡磯城島にあり
一致しております。
日本書紀に雄略天皇がに使者を
派遣したことが、記されていな
いのです。
倭 武大君は、出雲王の彌母里
(葛城 円)を火矢で焼き討ちし、
王殺し(暗殺)をしています。
君(妻の)倭 広(手白香皇女/仲
津姫)は、母の兄の浦嶼 草香
と共に焼き死にを選び、妹の
関に養育をするように頼んで
います。
然し王殺しをして、報復され
弓矢殺害され息子が大君を受
け継ぐ権利を失って仕舞いま
した。
倭 武(餘 昆)の異母兄弟継(餘 紀)
に大君の権利が移りますが、彼
も又、王殺し(依網/筑紫 磐井)を
して長子共々、殺害され所謂、
継体天皇の子孫は、大君(天皇)
輩出は出来無くなります。
王系譜
邇波 彌母里ー荒田ー依網ー蔓木 垂見
誉津別皇子は口が聞けない状態
でしたが、倭 明大人に大君の話
が舞い込みます。
明大人(用明天皇)は武の遺児、幼武
に白羽の矢を立て、初代尾治国造の
蔓木 垂見王に、推薦し、垂見(一言主)
と狩りをして、大君に相応しいと
看做され王権入りを果たしています。
幼武の父、武とその異母兄弟の
同じ熱意に首の繋がった系統は、
形の上で子孫が無かった事にし、
子孫が無くなった方を系譜の上
で、繋がっているようにしたと
言う事になります。
倭 済大君は仲哀 - 邇波
2026/05/08 (Fri) 10:38:20
大倭王権が、豊国に
都を遷都した後の神託
仲哀は、倭 済大君
筑紫国の香椎宮にて
協議した際に仲哀天皇
は琴を弾き託を求めた
とあり、倭王武の上表文に
、控弦百萬(こうげん
ひゃくまん):弓を引く百
萬の兵、非常に強大な軍勢の意。
と表現されている事を踏まえて
記述した事から仲哀と済は同一
人物だと記紀が暗示してます。
神託伺いには鉄鐸を
使った事でしょう。
大君 済
「西方の国を王に
与えたいとの事です」
王 彌母里
「高句麗に遠征する必要はない」
神託を疑う
「高い処から西を見たが、海が
あるだけ国など見えなかった」
の発言は
徐福以来の外国に流布させて
いた日本の位置を示す
郡部の配置に開してだけ
例松浦郡(評)の配置は
北松浦群は、西に存在に
九州は北、本州れは南となる
済王君はしっこく食い下がり
矢で殺され、殯(もがり)の
為に移されることになります
新たな神託
新王君 興
王 彌母里
王子 荒田
倭 興大君
「私の後を継ぐのは
百済の王子だそうです」
神託の詳細を尋ね、王子に命令
西万の風に向け海を渡り百済
と交渉をさせます
大仙古墳の被葬者 - 邇波
2026/05/07 (Thu) 23:40:48
大仙古墳は誰の御陵か?
仁徳天皇事績は、竈門の煙を観て
三年間、課税と労役を全てを取り
止めた大君
倭 建(大海人/天武)天皇の
長子、稚建(高市皇子)大君
百済王族から扶餘王家の入婿
を提案した倭 興大君/大人の
御陵になります。
倭 武大君(大王表記)は百済の
技術を結集し威信を掛けて造営。
継体天皇の事績は、誰のものか?
越前国三国 (日本書記)説
近江 (古事記) 説
継体天皇の御手製
淡墨桜は天皇家の産土の地
岐阜県本巣市に存在しています。
依って畿内に入る際に東山道
の淡海・近淡海になり古事記
が正しいと言う事です。
越前国三国は、誰の隠棲地
或いは出生地だったのか?
京都府京丹後市丹後町にある
間人(たいざ)地名は、聖徳
太子の母に因み、蘇我氏と物
部氏との争乱を避けて丹後に
身を寄せ、宮に戻った伝承が
有ると言うが、記紀の資料に
丹後国に避難したとの記述は
ない。
「性慈仁ありて、孝順ふ。
天緒承へつべし」
「慈しみ深く孝行篤い人格
である。皇位を継いで頂こう」
と呼ばれるに相応しい人物
像に彼の記述は見当たらない
聖徳太子も立派な人物とされ
ているが、実在人物とは1年
崩御時期が擦れており、該当
する人物は実在性を感じさせ
無い山背大兄であり三輪 文屋
の進言「乘馬詣東國 以乳部爲本
興師還戰 其勝必矣」
(東国に難を避け、そこで再起
を期し、討つべし)
と進言する部下に無用な争い
と述べるだけの勇気を持ち合
わせています。
倭 聖大君だと言う事です。
1世紀からの侵略者 - 邇波
2026/05/07 (Thu) 14:09:24
鬼界カルデラの噴火が始まり日本を覆う
煙や火山灰(鬼界アカホヤ)で気候が、
激変。縄文人は大陸(朝鮮半島)や南方
に移動し、雲南地方の漢民族(龍族)に敗
れた兄弟の蛇族、蚩尤を崇拝する道教の
信奉する倭人(弥生人)達が、七万六千
人に急減した日本に、東海三神山の地へ
、入植する為に筑紫の島(九州)に上陸し
ています。 足場を固めた倭人達は、
軈て高地性集落で、東方に移動を開始
し始めて倭国の大乱と呼ばれている、
侵略戦争が勃発しています。
Re: 1世紀からの侵略者 - 邇波
2026/05/07 (Thu) 16:47:57
ヤムトェ連合国家は、五十九万五千人
に日本人口を増加させ、膨れ上がった
人口から立ち上げられた政策であり、
阿毎巫女の刀良(卑弥呼)の時代には、
無かった連合体です。
4世紀初頭には、中部圏に進出、
都支(岐阜県土岐市)を始めとし
て広がっています。
土着豪族は弥生渡来人の政府を看過出来ず
滅ぼす決意をして、所謂天皇族を招聘する
ことになります。
Re: Re: 1世紀からの侵略者 - 邇波
2026/05/07 (Thu) 17:10:26
爆発的に弥生人が増加した事由
人口で凌駕し、土着民の制圧
を画策したのです。
招かざる人種として、土着民が毛野
(句奴)国から遠征部隊を派遣し、
衝突していた事を国の大乱と書き換え
中華支配する理由を隠して来たと言う
事になります。
女性達にミニスカートを着用し、
沢山の子供達を作ったのです。
袖を縫い付けた上衣が出土しており、
さらに古墳時代の輪を見ると、袈裟
衣は女性、ことに巫女の衣服だと考
えられます。
輪の衣装を見ると、男女ともに上衣は
同じで、筒袖で前開きのワイシャツ状
のものを着ているが、襟はない。下衣
に就ては男子はズボン、女子はスカート
をはいている。これとよく似た衣服は今
でも、中国・雲南省の基諾ジノー族や
景顔ジンポー族、ワ族などの少数民族に
見られております。
埴輪と少数民族の例からみて、弥生人は
男女ともに襟のないワイシャツ風の上衣
を着ていたとみて間違いないです。縄文
時代の女性をかたどった土無も同じよう
な上衣を着ています。 下衣は、男子は
ズボンで、女性は貴婦人風の輪は、織布
を縦にしたスカートを着けている。
巫女とみられる埴輪は、上衣の袈裟衣
のみで、下は表現されていない。下半
身を露出しているものもあるのです。
基諾族などを見ると、織り上げた布を
横向きに腰に巻き付けた巻きスカート
を身に着けている。それを描写すると、
倭人伝の男子の衣服になる。その巻き
スカートは、かつては超ミニで、下半
身は露出状態だった。
弥生時代の一般の女性は超ミニ状の
巻きスカートで、男性に協力させた。
Re: Re: 1世紀からの侵略者 - 邇波
2026/05/07 (Thu) 17:25:39
内閣総理大臣が、群馬県から
沢山輩出される理由は自ずと
明らかになるであろう。
彫りの深い顔立ちが基準だとも
明らかになるであろう。
彫りの浅い顔立ちは選ばれぬ。
大臣=大人=大国主族(王で国の主)
国家総力上げて行われた事業 - 邇波
2026/05/07 (Thu) 16:37:05
大倭王権はヤムトェ(邪馬台)国
の位置や、中華思想化の朝遣の
大君の実名を隠して、中華侵略
や属国の回避を狙い改竄を所謂
吉備 真備らを、国家事業とし、
留学生の名目で派遣して、写本
させて改竄します。
私財を投じて完遂させる姿を
中華の役人は首を捻るばかり
だったそうである。
魏の派兵も失敗してます。
出雲国は大倭王権の直轄地に - 邇波
2026/05/07 (Thu) 15:57:51
古事記の応神天皇記に登場
「わが教化を広めたい」
実際には宗教改革であり、
崇拝を求婚することに例え
ています。
(きょうけ=教え)を広めたい」
という意図が込められた和歌は、
正確には
「わが歌」として伝えられる
求婚歌(男歌)に関連する
場面が該当します。
日奉 刀見(鳥見彦)は、王の邇波 彌母
里大人が火矢を掛けられ、暗殺された後、
明国彦(長脛彦)と合流しました。
御春 冝坂も水軍を率いて駆け付けますが、
間に合わなかったので、引き返しました。
日奉 刀見は彌母里の弟、開国彦
(長脛彦)を支援し、武(応神)と
対立し武を苦しめましたが、一緒に、
暗殺された浦嶼 草香の弟の目が、
酒宴の席で、開国彦を暗殺して、
開国彦の軍隊をスキタイの矢の
弓矢隊で、壊滅して敗北します。
倭 興大人は武に対して武器庫
を開いてませんが、出雲侵攻
には追従しております。
勢いで、出雲国の彌母里大人の子で
出雲の邇波 荒田大人に向かって進軍
しますが、大敗し和解の後武大君の、
宗教革命で日奉祭祀は廃止されます。
銅鐸祭祀(蚩尤)も廃止、遷都で遷座された
刀良(卑弥呼)の遺物崇拝も廃止されました。
国見儀式の香具山祭祀は、存続し浦嶼 草香の
弟の目(物部 目)に祭祀職務が移されてます。
相続する筈の浦嶼 栗原は、御春 冝坂の水軍を
預かり、冝坂は、倭姓に復姓して大倭国造に、
水軍を預かった栗原は、終焉を意味するアワリ
から尾治姓を賜ります。
日奉氏系譜
日奉 稲日一乙世一志麻一熊野 刀見
(初代 熊野国造)